金城裕

 私の師である金城裕先生は、武道家であるとともに、空手の研究家でもあった。

 

 金城先生が多くの影響を受けたのは、少年時代(中学二年以降)からの師だった大城朝恕である。大城先生は工業学校教師のため学校系統(体育科目)の唐手家ながら、平安を教えず、首里手の格闘技法の研究に熱心だった。大城先生の友人だった道場系統の喜屋武先生にもこの傾向があり、徳田安文らの学校教師は別として、体育ではなく武術としての首里手回帰の傾向が強かったようだ。

 

 私が教えられた唐手(からて)も、唐手と言うよりは首里手に至る前段階としての唐手(トゥーディー)、さらに唐手(トゥーディー)を通して首里手へと言うことであった。

 私は、その中から平安二段、ナイファンチ初段とその考え方を採用し、それも学校体育としてではなく、言い伝えや金城先生の教えから本来の首里手に迫る技術を、現代競技に適用した。

 

 金城先生は、首里手の格闘技法を捜し求めて構築したが、私はその精華を競技に使わせて頂いた。金城先生と私の大きな違いは、関節技など取手(とりで)を含む格闘技法を模索したか、取手を外して組手競技の技法を追求したかの違いであり、それは同時に、格闘技法の達人と、少年空手競技の指導者の違いであることはお分かり頂けよう。金城先生がいなければ、私の組手競技理論の根拠が存在しない。金城先生あっての理論だったことを申し上げておこう。

 

 平成10年~20年において全国大会で、少年空手界を席巻した私の組手理論は、金城空手の一部を流用しただけのものであり、私の工夫は何もない、師の教えを取り次いだだけだと強調して来たのはこのようなことである。