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 空手百話は長文になるため、別サイトに記している。上のボタンで空手百話のサイトに飛ぶが、そちらにはここに戻るボタンがあるので問題なくここに戻れる。自由にお読み頂きたい。

 そこには、金城先生、中村先生からの聞き書きを中心に、筆者の見聞などを収録してある。また動画も配置してある。

空手百話

 空手百話と題して、金城裕とその弟子中村孝から聞いた四方山話を中心に、筆者の意見も加えた形で、幾つかのお話しをしようと思う。

 師金城裕は平成26年10月、94歳で空手一筋に生きた生涯を閉じた。最後まで師弟関係を崩さなかった私の兄弟子だった中村孝はその一年前の11月に81歳の生涯を閉じた。これを記す私もすでに81歳となり残り少ない人生を過ごしているので、耳学問で聞いていた話を書き残して後の参考に供したいと思う。

 最初にお断りしなければならないことは、私が話すことは、空手一般ではなく首里手系統の空手だけに限定していることで、剛柔流とか上地流、あるいは那覇手系統とか中国由来の空手や、本土あるいは沖縄で戦後に創造された空手は含まない。また本土で発達した部分を持つ松濤館流や糸東流などとは幾分趣が異なるかも知れない。

 要するにここでお話しすることは、明治38年(学校体育として唐手が作られた年)から大正末期にかけて唐手と呼ばれていた系統の空手のことである。私は浅学非才でこの系統の唐手についてしかほとんど知識がないからである。言い訳をさせて頂けば、我が師金城は口癖のように、

「何もかもみな空手と呼ばれるのは大変困る。私は空手の一部しか知らないことになる。私は剛柔流や上地流は全く知識がない。」

 と言うのがあった。私が若かった頃は、この言葉は師匠特有の持って回った言い方に聞こえた。金城ほどの大家が、剛柔流を全く知らないなどと言うことはないはずだと思った。しかし、私も年を取り、自分が学んだ空手が多少理解できるようになると、この言葉の意味を理解できるようになった。私自身が自分が学んだ系統以外の空手は全く理解していないことが分かってきたからだ。

 そこで、ここでは首里系統の空手にだけ限定してお話しすることを、知識がないからと言うことでご容赦願いたい。

二つの唐手

 唐手が学校体育として編成された当初は、唐手は首里系だけだったのだが、後に剛柔流が商業学校の体育正課に採用されてからは、首里系統の唐手と那覇系統(剛柔流)の唐手と二種類の唐手が存在することになった。しかし、剛柔流が唐手と呼ばれた期間はそう長くはなく、大日本武徳会との関係から本土で流派名が名乗られるようになってからは、唐手ではなく剛柔流の方が一般的に通用したようである。そこで、当初は唐手と言えば、首里系統だけだったが、唐手が成立した後20年ほどして剛柔流唐手が誕生し、昭和に入ると流派名が用いられるようになり、再び唐手は首里系統を意味するようになった。首里系統の唐手と剛柔流の唐手が並立していた期間は十年程度だった。

 

 剛柔流唐手が商業学校に採用された後しばらくの間は、創始者宮城長順は唐手の名称にこだわっていた。宮城長順の師東恩納寛量は、糸洲安恒と同様に唐手を編成しようとしたが採用されなかった。男子中学で花城長茂から唐手を学んだ宮城長順は、糸洲の手が採用され東恩納の手が採用されなかった理由を理解し、剛柔流を編み出して唐手として採用され人から、当初は苦労して唐手を創設したことから、唐手の名称に拘りがあったのだろう。

 明治の末期に剛柔流が体育正課に採用されなかった詳しい情は不明だが、金城から聞いた話では、人様の顔を殴るようなことや、開手で眼をを突くようなことは、学校体育には相応しくないとされた用だ。そこで宮城は開手を握拳に変えて、二種のゲキサイを作った。

 ご承知のように、糸洲はもっと徹底していて、平安は五種作り、突きは全て中段突きとして、顔は突かないことにした。しかし、これでは松村の手には迫れないので、体操唐手を越えて格闘技術を研究するひとたちのために、唐手とともに口頭での言い伝えを残した。その典型が、

「突きは首から上、蹴りは膝から下」

 すなわち型では中段を突くが実際は上段ですよ、と言うことだろう。